「4回目の紅白は何とか皆さんの応援で。そして、お帰りの際には是非CDを買って下さい」―アンコール曲を終えステージから叫んだのはこのほど大阪・中之島のフェスティバルホールで「山内惠介コンサート2018~歌の荒野に孤り立つ~」を行った山内惠介。フェスティバルホールは1年ぶりの登場だけに地元のファンは勿論、全国からも熱心なファンが駆け付けた。休憩を挟んで約3時間30曲を熱唱、会場一杯に埋めたファンは山内の一挙手一投足に一心不乱に声援を送った。

午後4時。「尊敬する1人」というユーミンこと松任谷由実の「ひこうき雲」でオープニング。ステージの緞帳と同じ大きさの大型プロジェクターに歌詞が投影され、センターにはスポットライトを浴びた山内がくっきり、スタートから粋な演出。ちなみにプロジェクターは「リリックプロジェクション」という最新のオーディオ機器で「演歌界では僕が初めてなんですよ」と自慢のシロモノ。
前半はそのユーミンや吉田拓郎、ドリカムなど、演歌とは程遠いジャンルの作品をトークを交えながら披露。前半最後は先ごろ62歳の若さで他界した西城秀樹の「YMCA」など秀樹作品の代表作3曲を披露して終了した。秀樹作品を最後に持ってきたのは山内自身に歌を通じて勇気付てくれたのだろう、と想像するが、実に的を得た構成だった。
休憩を挟んでの後半は着流しで登場。会場からは割れんばかりの拍手と声援。「恋する街角」、「スポットライト」、「愛が信じられないなら」等オリジナル作品を一気に歌い上げ、アンコールでは最新曲「さらせ冬の嵐」を熱唱、幕を閉じた。

高校時代にヒットメーカーの水森英夫氏にスカウトされデビュー。山内と最初に会ったのはライブハウス「ミューズホール」(大阪・心斎橋)で立ち上げた「私を世に問う演歌ライブ」(現在は大阪発流行歌ライブ)だった。まだ高校生の色白の無口でぶっきら棒な青年、そんな印象だったと記憶する。手元にそのライブの15周年記念冊子がある。内容はスタートから15年間に出演した歌手、代表作品、CD・テープの販売数、動員の全てがわかる内容(非売品)だ。山内は2001年(平成13年)の5月16日の第68回にデビュー曲「霧情」を引っ提げ登場した。その時の出演者は、その後紅白の常連に成長した水森かおりと若手だった北川大介。最高のメンバーだった。ちなみに動員数は225人。山内の販売実績は78枚/本と新人としては異例の実績。その後も新曲発売の度に出演、確実にファンを増やした。2004年(平成16年)には新曲「二十歳の酒」で1月から3月まで3カ月連続(ヘビーローテーションシステム)で出演してくれた。ちなみにCD/テープの販売実績は毎回100枚を超え100回記念特別公演にも水森かおりや三門忠司らと出演し花を添えてくれた。その時の模様は朝日新聞夕刊の社会面を写真入りで飾り、大反響。問い合わせ先の電話がパンクしそうになったほど同ライブの歴史に残る話題だった。その後、神戸でスタートした「KOBE流行歌ライブ」にも度々出演してくれた。たまに会うと当時のことを懐かしそうに話す、そんな山内だが、すんなりスターの道を歩んだわけではない。デビユー当時からマネージャー(現事務所代表)と二人三脚で全国行脚。作品面でも試行錯誤が続いた。年末のひのき舞台「紅白歌合戦」も今年実現すれば4年連続。多分、今の勢いと実績からして当確だろうが「油断は禁物」。

それにしてもここ数年の成長ぶりには目を見張るものがある。歌は勿論、お喋りでもだ。笑いを取る技も冴えてきたし、時折見せる茶目っ気な一面もウリの1つになってきた。
男性演歌界は若手の台頭で勢いが出てきた。その先頭にいるのが山内を筆頭に三山ひろし、福田こうへいの平成三羽ガラス(記者が勝手に命名)。三山は歌に哀愁や郷愁を感じさせる温もりがある。福田には歌にキレがある。そして山内には歌にステージにファッション性がある、記者なりの感想だ。
芸能界は回りからの評価や称賛を求めながら活動している。忍耐、努力、辛抱…決して楽なものではないが、これからも歌手業に専念しもっともっと上を目指すのであればこれらをしっかりと実践しなくてはいけない。

文:金丸