【連載】業(なりわい) vol.2:「ミヤコ瓢箪山店」会長 岩城秀治 氏
Vol.2
ミヤコ瓢箪山店(大阪府東大阪市)
会長 岩城秀治 氏
演歌・歌謡曲の歌い手であれば1度や2度はお世話になっているといっても過言ではないのが「ミヤコ瓢箪山店」(大阪府東大阪市・岩城光孝代表取締役社長)。全国的にCDショップの閉店が続く中、演歌・歌謡曲に絞った商品構成で生き残りをかけている。創業者は現社長の父親で現会長の岩城秀治氏(写真左、同右は弘子夫人)。「ミヤコ福島店」(心斎橋ミヤコ本店傘下)で学生の時から修行を積みその後、暖簾分けという形で現在の場所に店舗をオープン。もう創業50年以上続く老舗だ。本家でもある「ミヤコ本店」は東の山野楽器、西のミヤコと言われた超有力店で、大阪のメインストリート・心斎橋筋商店街の一等地に店舗を構えていたが、音楽ファンのライフスタイルの変化に対応できなかったのだろう、10数年前に閉店を余儀なくされた。
岩城会長に創業当時から現在に至る経緯などを聞いた。
「出店の話しが持ち上がった時、今の瓢箪山と八尾の2か所が候補に挙がった。近くにスーパーが出来る、そんな情報をキャッチしたので今の場所に決めた。当時は裏が田んぼ、前が畑という立地条件だった」と当時を述懐する。ところが運よくレコード業界は右肩上がりで需要は年々上昇。その勢いに乗ってオープン早々から売上げは順調に進み、瓢箪山の駅前スーパーや奈良など大阪府下に5店舗を相次ぎ出店。レコード業界の成長と歩調を合わせ、全盛期には6店舗を擁し出店に拍車をかけた。
「当時のレコード業界はとってもいい時代で我々CDショップもその恩恵にあずかってほんとうに良く売れた。今のように演歌に特化していなくて洋楽は勿論、色んなジャンルの商品を在庫していた」という。しかし、そんないい時代は長くは続かず業界は配信など音楽を聴く形が多様化し、CD離れが始まった。そんな時、あるメーカーのセールスマンのひと言が決めてとなり方向転換。それが見事に奏功し現在に至っている。
そのひと言とは―
「これからのレコード店は店売りだけでは先が見えている。もっと外に出なくてはいけない」、との助言だった。「お客さんを待っているような商売ではなく、攻めの商売をしろ」という意味で、実に的確なアドバイスを素直に実践した岩城会長の先見の明も素晴らしい。それからは早速スナックなどのキャンペーンを始め、もう30年ほどになる。今や演歌・歌謡曲には必要不可欠な手売り販売という手法だ。商売としては本来の姿ではないがこれも時代の流れだろうか。
「朝11時頃から人づてに紹介してもらった店を一軒一軒訪問しながら地域を拡大していった。当時は1日に6~7軒の店訪問をしていた」。体力は勿論だが相当な精神力がいったに違いない。地域も大阪府下は勿論、奈良、京都、滋賀、和歌山、遠くは淡路島にも飛んだこともあったらしい。
「当時は良く売れましたねぇ。移動は車ですが、同行した歌い手さんは疲れが出たのか車の中でぐっすり寝てました。皆さん、よう頑張ってくれてました。演歌・歌謡曲の歌い手さんだったらほとんどの方とご一緒しましたね」と語る岩城会長の言葉にはずっしりとした重みさえ感じられる。
最初にキャンペーンで同行したのは堀内美和(BMGビクター時代)さんだったという。藤野とし恵さん、真木柚布子さん、島津亜矢さん、水森かおりさん…等々、名前を挙げるときりがないが、その中の一人でもう(NHK)紅白歌合戦の常連にまで成長した水森は今も年に一度、ミヤコ瓢箪山店の店頭に立ち店先で歌ってくれる。
「ほんとうにありがたいですね。先日も超多忙な合間をぬって来てくれました」とにっこりする岩城会長の優しい眼差しが人柄を表している。こんな話を聞くにつけ恩愛の絆を感じる。
CDショップとしての歴史は大阪府下では2番目の老舗。岩城会長を含め夫人の弘子さんなど身内の6人体制で店舗、キャンペーンを切り盛りしている。そのチームワークが同店のウリであり良さでもある。
岩城会長は、「店には生涯立ちたいね。店に立ってると楽しくて楽しくて。とくにお客さんとあれこれと話すのが一番楽しい」と微笑むが、間髪入れずに「お世話をした歌手の皆さんの活躍を見るとほんとうに心から嬉しい」。
そんな会長にレコードメーカーに何かひと言と水を向けると、「メーカーは自分の会社を守るのが精一杯なのは分かるが、もう少しショップのことも考えてほしいね」。また、何かと話題になるNHKの歌番組については、「最近は若手を起用するようになったがそれでもまだ少ないと思う。どうも同じ歌手ばかりの出演が目立つようにも思える。それでは歌謡界の活性化にはならないので、もっと色んな情報や多方面からの声を吸い上げるべきかと…」と語った。