昨年の11月17日、作詞家・下地亜記子さんが肺がんで亡くなった。72歳だった。ベテランの北島三郎や五木ひろし、水森かおり、氷川きよし…等々に作品を提供し、作詞家としてこれからという時だっただけに残念でならない。歌謡界の重鎮であり大家だった星野哲郎氏、吉岡 治氏、石本美由起氏らの亡き後を担う1人だっただけに歌謡界の貴重な財産を失ったと言わざるを得ない。出身地の三重県から上京。代理店でコピーライターをした後、自らデザイン事務所を設立。結婚、離婚を経験し、0歳の子供を一人で育てながら作詞家を目指した。作詞家を目指した理由は「外に出なくとも子供を一人で育てながら生活できる環境を作る事」だった。そんな話を聞くにつけ逆境に立った女性の強さを感じた。

下地先生とは公私にわたり親しくお付き合いをさせて頂き十数年。上京の時には新宿の自宅に招かれ、高台にあるマンションから新宿の夜景を楽しませて頂いた。その絶景は今も脳裏にしっかりと焼き付いている。4、5年前だと記憶している。年1回、知り合いのカラオケ教室の先生が主催する大会に審査員として来阪。顔色が冴えないことに気付いた。「ちょっと体調が良くないの…」そんな会話をしながらも気丈に審査をされていた姿が懐かしい。関係スタッフはもちろん記者にもいつも手土産を持参して頂いた。五木ひろしや北川裕二が新曲を発売した時、「いい作品が出来たの、応援して下さいね」といった内容のメールが度々届いた。

亡くなる前にある歌手のレコーディングに立ち合い、スタジオで転んで骨折をされたと聞き携帯に電話を入れたことがある。「そうなのよ。痛かったの…ものすごく。でも大丈夫だからまた大阪でお会いしましょう」そんな会話があり電話を切ったが、その時、すでに相当病が進行していたのでは、と推測した。先生とは私的なお付き合いが多かったが、公的には今から5年程前に友人とプロデュースした「高梁慕情」(発売・キングレコード/歌・井上由美子)の補作詞をお願いした。
備中の中心地として栄えた岡山県高梁市を歌った望郷演歌で、作詞は現在もお世話になっている元京セラの代表取締役会長伊藤謙介氏にお願いした。伊藤氏も高梁市出身で故郷への思いをたっぷりと詰め込んだ傑作。そんな詞を見て下地先生は「故郷への思い、お母さんへの思いがとっても良く出ている」と呟いておられた姿が印象深い。カラオケに行くと必ず「高梁慕情」を歌うがいつも下地先生の顔が何故か浮かんでくる。

作詞家は生みの親、作曲家は育ての親と言われるがここ数年課題と言われるのが作詞家の存在である。いい作品を出すには「まずいい詞がいる」ことは育ての親である作曲家の合言葉でもある。星野、吉岡、石本といったヒットメーカーに業界は頼り過ぎたきらいがある。こうした大家に続く世代の育成に乗り遅れたことに業界は猛省しなければいけない。作曲家の杉本眞人氏は「いい詞であればメロディーは自然と浮かぶ」と作曲家は詞の良し悪しに左右されると指摘する。
下地先生は五木ひろしの「九頭竜川」や増位山太志郎の「白雪草」、昨年紅白に初出演した市川由紀乃のデビュー曲「おんなの祭り」、山内惠介の「恋する街角」、北川裕二の「泣いて大阪」等のヒット曲を書き下ろした。そんな実績を買われ作品の依頼が急増していたと聞く。男女のドラマ、人生の機微、生活感…、色んなタイプの作品が多かったのも先生の持ち味でもあったように思うが、時折「あれっ」と思う様なユニークな作品もあった。
会話が弾むと目がランランと輝き会話もヒートアップしていく様は先生の魅力でもあった。合掌。

文:金丸