1610_kishimoto1作曲家として40年を超えるキャリアがあり、川中美幸「越前岬」や天童よしみ「おまえ」、原田悠里「氷見の雪」といったベテランアーティストのほか、デビューから一連の作品を手掛けている愛弟子の夏木綾子など、歌謡界の第一線で活躍中のビッグネームに多くの作品を提供しているヒットメーカーで歌の職人でもある。
「作家は発明家である」と表現する岸本健介氏に、デビュー当時の苦労話も含めインタビューした。

――歌に興味を持ったのは

岸本 中学生の頃から歌が好きでしてね、特に橋 幸夫さんの「潮来笠」が大好きだった。歌謡曲ファンだったので、当時、歌謡界の御三家と言われた橋 幸夫さん、舟木一夫さん、西郷輝彦さんらの歌をよく聴いて育った。その頃は住んでいた町中に歌謡曲がいっぱい流れていて、今では到底考えられない良き時代でしたね。

 

――作曲家としてのデビューまでには苦労もあったかと

岸本 高校時代はG.S(グループサウンズ)の全盛期で友人とバンドを組んだりしてましたね。上京して大橋巨泉さんの事務所に唯一の作曲家として所属してフォークやCMソングなども手掛けたし、いろんな仕事を経験しながら勉強の毎日だった。24歳の頃にやっとビクターレコードに出入り出来るようになった。当時、都倉俊一さんは既に大スターだったし、今は亡き猪俣公章さんは天才だった。猪俣さんは僕にとっては憧れの作家だった。同期で歳も同じくらいの若手作家には現在ヒットメーカーとして君臨している徳久広司さん、岡 千秋さん、弦 哲也さん、杉本眞人さんらがいた。

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――大抜擢で念願の作曲家の道へ

1975年黒パンこと黒澤久雄のアルバムでデビュー。1976年にビクターから発売された女優・十朱幸代の企画アルバム「佃囃子」で全12曲すべてを吉岡治氏が作詞、岸本健介氏が作曲し、この作品が作曲家としての本格デビューとなる。このアルバムは同年度の日本レコード大賞企画賞にもノミネートされた。

 

岸本 ある日、ビクターのディレクターから作品があるなら持ってこいといわれ、よく可愛がっていただいた故・吉岡 治先生が書き下ろされた作品にメロディーをつけるという、正に大抜擢してもらったんです。しかも、なんと当時の好感度No.1女優の十朱幸代さんに歌ってもらえることになり、初めてお会いした時はあまりの美しさに度肝を抜かれた。

ある時、吉岡先生から「お前が唄えよ」と言われたこともありましてね。でも、歌い手になる気はなかったし、何より長年目指していた作曲家としてデビューできたのが嬉しかった。

――作詞は生みの親、作曲は育ての親と言われるが

岸本 いい詞には必然的にいいメロディーが浮かんでくるし、スムーズに作れることは確か。極端に言えば詞の一部で触発される。新人の頃はそれほどの引き出しもなくボツになった作品は山ほどあるし、自分ではいい作品と思っても世に出ていない作品も多い。

作詞の先生方には大家と言われる方がたくさんおられますが、僕にとっての吉岡 治先生は、同じ雰囲気や言葉を持っているように思えたし、生まれた作品はメロディーの語感とか座り心地がとっても良いとつくづく思う。また、詞が完成した段階でメロディーを見抜いておられたし、鼻歌で自分なりのメロディーを付けておられたとも聞きます。

――これまでに商品化された作品はざっと600曲

岸本 僕の場合はメロディー先行(曲が先にできている)が多いんですが、詞先行だった香田 晋の「手酌酒」(作詞:下地亜記子)は大傑作だった。ご存知の♪馬鹿よバカバカ~と“馬鹿”の連発だったが、当時は他に類ない斬新な歌詞だったので最初から売れると思っていた。

数十年の作曲家生活の中で一作品でも誰もが知っている曲を書ける、というのはとても有り難いことだと実感した。

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――大阪もの作品について

岸本 1955年頃からの昭和年代は“演歌は大阪から”みたいな時代だったと思うし、「大阪しぐれ」など大阪をテーマにした作品が全国ヒットした例はたくさんあった。大阪は庶民的な風土があり、演歌や歌謡曲に馴染みやすかったのかもしれないね。

大阪ものに拘る訳ではないが、メディアとして定着したカラオケを意識した場合、最大のターゲットである中高年層の女性が主人公になれる作品作りが必須条件だろうと思う。歌謡曲志向がこのところ顕著になりつつあるが、CDを売る、つまり実績を挙げるにはやはり演歌を制作することが条件だと信じている。

――歌謡曲全盛期の名物ディレクターの存在

岸本 良き時代は制作費もそれなりにあったし、各メーカーのディレクターはいろんな所に出向き、作品作りのヒントを探していた。そして、各メーカーには名物ディレクターと言われる方が必ずいて、そういう方達に育ててもらったと感謝しています。

――愛弟子、夏木綾子のデビュー曲「浪花の母」(1993年)からほぼすべての曲作りをされて

岸本 夏木綾子のデビュー当時はまだ演歌がいい時代だったね。デビュー曲に関してはドブ板作戦で行こうとスタッフにハッパをかけ、とにかくキメ細かいキャンペーンを展開したことは今も鮮明に脳裏に焼き付いている。あの当時の大阪は演歌が売れるニオイがあったね。

来春25周年を迎える夏木綾子に関しては、いつも5年先を見据えながら楽曲を作っている。もちろん、状況によっては順序や内容は変わるが。カラオケ市場の変化は凄まじいので、タイトル然り、急きょメロ先になったりとか―。自分がこうだと思っても自分本位になってはいけないので、要望は出すがスタッフの意見を聞いて曲作りをしている。

岡山県津山市出身。2014年には作曲家生活40周年の記念アルバム「歌綴り」(2枚組全34曲収録/非売品)を制作し、50周年に向けた活動を精力的にこなす岸本健介氏の曲作りへの並みならぬ意欲を垣間見た気がした。

 

インタビュアー:金丸/KODAMA